2009年01月31日

松陰神社にお参りしました。


今回は、松陰神社について書きたいと思います。


■松陰神社ができるまで・・・。
松陰神社は、吉田松陰が安政の大獄で処刑された後に門下生によって立てられました。当初、吉田松陰の墓は小塚原の回向院というお寺ににありましたが、文久3年1863年、安政の大獄の4年後に高杉晋作らの門下生により現在の場所に移されました。そして、明治15年11月21日に墓の横に松陰を祭る神社が創建されました。さらに昭和に入ってから造営され現在に至っているそうです。

■なぜ吉田松陰の墓は移動されたのか?
なぜ世田谷に移ったのかというと、そこはかつて長州藩主の別邸があったからだそうです。しかしなぜ、小塚原ではいけなかったのかと思い小塚原について調べてみました。

■小塚原刑場
小塚原のことを調べてすぐに納得できました。
小塚原という場所は現在の荒川区南千住2丁目あたりのことで、そこには
処刑場があったそうです。安政の大獄にて処刑され吉田松陰の遺体は近くにあった回向院というお寺に埋葬されたそうです。松陰の門下生たちが改葬しようと思うのも納得できます。また、吉田松陰が門下生たちから尊敬されていたということもよくわかりました。

■回向院とはどういうお寺?1667年本所回向院の住職である弟誉義観(ていよ・ぎかん)が小塚原の刑場の有様を見て隣接する場所に常行堂を建設しました。当時の小塚原刑場は死体を丁寧に埋葬しなかったので野犬やイタチの類が食い散らかして地獄絵図のようになっていたそうです。それを見かねて造ったお寺が南千住回向院になったというっわけです。その後杉田玄白が刑死者の解剖に立ち会った場所でもあります。

■松陰神社の行き方
松陰神社への行き方は、いろいろあるようですが私は世田谷線で松陰神社前という駅まで行きそこから5分くらい歩きました。

松陰神社前駅.jpg松陰神社前という駅はとても小さな駅でそこを降りると商店街になっています。その商店街を5分くらい歩いていくと鳥居が見えてきます。そこが松陰神社です。
松陰神社鳥居.jpg
また吉田松陰のことや松下村塾のこと、松陰神社の説明が書いてある看板を読み中に入ると左手に吉田松陰の銅像がありました。一番奥に本社がありその脇におみくじなど売っていると所がありました。そのあたりまでは普通の神社という感じなのですが、もっとも特徴的なのは松下村塾を復元した建物があるところだと思います。小さな木造の建物でとても質素な感じでした。また、吉田松陰の銅像の裏手当たりに吉田松陰のお墓がありました。激動の時代に日本を命がけで守ってくれた吉田松陰に感謝の心を込めてお参りしてきました。
松下村塾内部.jpg
松下村塾外観.jpg
ニックネーム ロン at 18:15| Comment(0) | 日記

2008年12月13日

吉田松陰の名言4

血気(けっき)もっとも是れ(これ)事を害す。暴怒(ぼうど)また是れ事を害す。
血気、暴徒を復職する、その害さらに甚だし(はなはだ)


意味は、
血気はは最も事の成就を害してしまう。怒りに任せた暴発も同じである。しかし最も悪いのは、血気にはやるふりや怒りにもとづく暴発をしているように見せかけることである。
といったところだろう。

血気とは若さなどの本能的な勢いや元気に任せたことを言い、暴怒とは何が正しい道かなどを考えずに怒ることに酔って狂うことをさすとしています。

このような行動はやろうとしている大事なことをを一瞬にしてだめにしてしまうことになるとして批判しています。

さらに吉田松陰は何も考えずに面白そうだからとか自分の力にまったく自信のないものが自分の存在感を出したいがために群れてあおって喜ぶような者もいるがこちらはもっとも世の中に害を与えることであるといっています。

幕末という時代は、若者が命がけで国の行く末を考え行動した時代ですが、中には、志を持たない偽者の志士もいたようです。
いつの時代もおんなじなのだなぁと感じました。

自分はどうだろう?

ちょっと自信がないけど、・・・

テレビを見ていると、連日いろんな問題が映し出されています。

環境問題、幼児虐待、殺人、教育問題、拉致問題、雇用問題、年金問題・・・

ちょっと思い出すだけでもどんどんあがってきます。

それらがテレビなどで放映されるたびに怒ったり、意見を述べたりしていますが、時々疑問を覚えるときがあります。

マスメディアによってさまざまな情報が次から次えと入ってきますが、
その情報の種類が増えている一方で内容が薄くなっているのではないかという気がします。

例えば教育の問題では、体罰を行った教師を教育者として問題視しているようですが、本当に体罰はやってはいけないことなのでしょうか?
子供が悪いことをしたときは時として体罰を与えなくてはならないこともあるのではないでしょうか?どういういきさつで体罰が悪くなっていたのかというところまではなかなか知ることができません。
雇用問題や年金問題、医療の問題なども同じようなことがいえるのでしょうか?そういった薄っぺらな情報の中で自分たちはそれぞれの問題を考え良い事なのか、悪いことなのか考えていかなければならない環境にあるのだと思います。

世間一般的な意見に流されて怒ったりするのは気をつけなければならないことだと思います。

そうはいっても、幕末に比べればずいぶん生きやすい時代になっていると思います。現在の社会問題で暴動がおきたり戦争がおきたりすることは今のところありません。しかし、今後もずっと平和な日本でいられる保証もありません。

松陰は儀のための勇気に元ずく行動が大事だと言ってます。
今の時代自分に何ができるかまったくわからないし、何もできないかもしれないけれど、この言葉は頭の片隅においておかなければいけないと思いました。
ニックネーム ロン at 20:30| Comment(0) | 吉田松陰の名言集

2008年11月09日

吉田松陰が好んで使った言葉

仁人に敵なし

仁人とは最高の人格者ということです。

つまり、人に心からの思いやりが持てる最高の人格者には敵など存在しなくなってしまうという意味です。

これは、吉田松陰が好んで使っていた言葉の一つです。

敵がいなくなってしまうのであれば、ぜひとも仁人になりたいものですが、仁人とはどんな人のことを言うのでしょうか?

この言葉の説明では、最高の人格者と定義しましたが、これではまだ良くわからないと思います。

最高の人格者とはただのいい人ではいけないようです。

仁人には必ず勇があるそうです。やるべきことは必ず勇気をもってやりぬくかなければいけないようです。

又、仁人は徳がある人のことを言うそうです。
徳のある人は発する言葉も違います。しかし言葉巧みであるということとも又違うようです。むしろ言葉がうますぎる人に徳のある人は少ないと松陰は繰り返し述べています。

仁人とは、自らを磨き、思いやりがあり、時には勇気を持って困難に立ち向かうことのできる人のことを言うのではないでしょうか?

そう考えると、吉田松陰はまさに仁人だったと思います。

では、吉田松陰には敵がいなかったのでしょうか?

僕には大勢いたともとれるし、まったくいなかったともとれます。

なぜなら、最期に処刑されているからです。

しかし、吉田松陰自信は自分を処刑に追い込んだ幕府さえ敵だと思っていなかったようにもおもえます。

僕が、吉田松陰に興味をもつきっかけとなった『おーい竜馬』という漫画に松陰が処刑されるシーンがあります。

その中で、松陰は幕臣に対しこのように言っています。

幕府のみなさん、
私たちの祖先が永きにわたり
暮らし・・・
慈しんだこの大地、

また、この先子孫たちが、

守り
慈しんでいかなければならぬ、

いとしき大地、
この日の本を、

どうか異国にに攻められないよう

お願い申す・・・

私の愛する、

この日の本を
お守りくだされ!!

百年後、2百年後ごの
日本人のために・・・

というセルフがあります。

やり方は違えど国を守るという志においては同志であると考えていたのでしょうか?

このように考えると、吉田松陰には一人も敵がいなかったといえるのではないでしょうか?

よく、「あいつはただのいいひとなんだよな」っていう言葉を耳にしますが、それじゃぁ、どうすりゃいいんだよ。って思っていました。

その言葉の答えがあるよな気がします。

でも、それなら、世の中の悪人以外はほとんどがただのいい人だよなとも思いました。

少しでも松陰のような仁人に近づきたいと思いました。
ニックネーム ロン at 13:18| Comment(0) | 吉田松陰の名言集

2008年11月03日

吉田松陰の父杉百合之助からの言葉

家君(かくん)欣然(きんぜん)として曰く(いわく)
一時の屈(くつ)は万世(ばんせい)の伸(しん)なり、いずくんぞ傷まん(いたまん)

この言葉は、吉田松陰が入獄する際、父である杉百合之助がおくった言葉です。

失敗や困難は、次の万世に伸びていくためのものだから嘆くことはない。という意味です。

投獄される吉田松陰を励ます為にに送られた言葉なのでしょう。

この言葉からもわかるように、吉田松陰は家族からもその生き方をみとめられ精神的にも支えられていたものと思われます。

杉百合之助は吉田松陰を幼少の時から厳しく教育してきた人物であるが、周りにこのような人物がいたからこそここまで成長できたのでしょう。

松陰自信も牢獄に入ることを恐れもせず、獄中の生活さえ、事故成長の場と捕らえていたようです。

しかし、普通の家族の中で育っていたとしたら、ここまで捨て身で行動できたでしょうか?

自分のことだけなら、心がけ次第でどんな行動にでも踏み込めたかもしれませんが、もし家族からの反対があったり、家族に罰が及んだりしたら、いくら吉田松陰といえどもあそこまでの行動力をもてたでしょうか?
まさに、この家族あっての吉田松陰と言えるでしょう。

親 思う心にまさる親心今日のおとづれ何と聞くらん
吉田松陰が処刑される直前に歌った句です。

過激な行動で日本を変えよとした吉田松陰ですが、この句からは
吉田松陰の優しい一面が良く現れていると思います。

このような優しさを持った人物が革命の元となったために、西洋からの支配を阻止することができたのではないでしょうか?
ニックネーム ロン at 22:36| Comment(0) | 吉田松陰の一生

2008年10月28日

吉田松陰最大の功績、松下村塾について

今日は吉田松陰の最大の功績ともいえる松下村塾について書いてみたいと思います。

松下村塾は吉田松陰が開いた塾だと思っていましたが、実はそうではなかったようです。

吉田松陰の叔父である玉木文之進が設立し、松陰自身もそこで学んでいたことがあったようです。

その後、松陰が主催するようになってから、後に幕末、明治維新で活躍することになる人物が次々と入門してきたそうです。

なぜ、そんなに多くの門下生が集まってきたのでしょうか?
それは、武士や町人などの身分に関係なく門下生を誰でも受け入れていたからだそうです。今では当たり前のことですが、身分差別の強かった当時としては画期的なことだったのではないでしょうか?

そんな中、久坂玄随、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋・・・
など歴史の教科書に出てくるような人物がどんどん育っていきます。

しかし、驚いたことに吉田松陰が松下村塾の主催者であったのは立ったの2年余りだったのです。

いったいどんな教育をしていたのだろう?と思います。

イメージとしては松陰が教壇に立って高杉晋作や久坂玄随が机を並べて一生懸命話を聞いているといったところを想像してしまいますが、実際は畑仕事をしながら心身の鍛練に重点おかれたようです。

自分が想像するには、学問を教えてもらいにくるというよりそれぞれが学んできたことをどう国のために活かすのか学びに着ていたのではないか思います。

そのような、頭の良い人が国の危機を救おうと必死になって集まってきたのであれば、あれだけの大人物を多く輩出したということにもうなずけます。

又、松陰は学んだ事を実行に移すことの重要さを説き自分自身も実行したそうです。

その結果、危険人物とみなされ松下村塾は廃校となり、吉田松陰も処刑されてしまいます。

松下村塾は理想の学校と言われているようですが、その裏には松陰の知識の深さはもちろんですが、情熱、実行力、人間性などがあったように思えます。

又、松陰から教えを受けた門下生たちの意識の高さが松下村塾を奇跡の学校にしたのだと思いました。
ニックネーム ロン at 21:21| Comment(0) | 吉田松陰の一生

2008年10月18日

吉田松陰が引用した言葉

前回紹介した、吉田松陰が妹千代へ送った手紙、
『禍福縄の如し・・・。』
の中で、人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)という言葉が出てきました。
聞き慣れない言葉なので調べてみると、”淮南子(えなんじ)”という中国の古い書物にかかれている言葉で幸福と不幸は予測しようのない事の例えとして使われている言葉だそうです。

人間(じんかん)とは世間という意味で、塞翁(さいおう)とは城塞に住んでいる老人という意味だそうです。

つまり、城塞に住む老人がもたらした運命は、福から禍(わざわい)へ、また禍から福へと人生に変化をもたらした。まったく禍福(かふく)というのは予測のできないものである。という意味になるわけですが、以下のような昔話に由来するものだそうです。

中国の北のほうに占い上手な老人が住んでいました。
さらにその北には胡(こ)という異民族が住んでおり、国境には城塞がありました。

あるとき、老人の馬が胡の国に逃げてしまいました。
近所の人は気の毒に思い、老人を慰めに行きました。

すると、老人は・・・。

「このことは、逆に幸福につながるかもしれませんよ。」
といいました。

しばらくすると逃げ出した馬が胡の国の馬をたくさん連れて返ってきました。なので、近所の人は老人のところへお祝いに行きました。

すると老人は・・・。

「このことは禍になるかもしれませんよ。」
といいました。

しばらくすると、老人の息子が馬から落ちて足を骨折してしまいました。近所の人たちは老人のところにお見舞いに行きました。

すると老人は・・・。

「このことが幸福になるかもしれませんよ。」
といいました。

1年がたったころ胡の国が城塞に攻めてきました。
城塞の近くに住んでいた若者はすべて戦にいきまいたが多くの若者が死んでしまいました。しかし、老人の息子は足を負傷していたので戦に行かずに済み無事でした。

(おしまい)



良い事があったからといって、浮かれ過ぎてはいけなく、逆に悪い事がおきたからといって落ち込みすぎる必要もないということは昔から言われていたことなんですね。吉田松陰のように偉い人の言葉だったり、古い書物に書かれていたことと知ると説得力があるように感じて実感がわいてきます。これからの人生においてとても役に立つ良い言葉だと思いました。
ニックネーム ロン at 12:36| Comment(0) | 吉田松陰の名言集

2008年10月16日

禍の後には福が来る

禍福(かふく)縄の如しといふ事をお悟りがよろしく候。
禍(わざわい)は福の種、福は禍の種に候
人間万事塞翁が馬(じんかんばんじさいおうがうま)に御座候(ござそうろう)。拙者なんど人屋(じんや)にて死に候へば禍のようなものに候へども、また、一方には学問もでき、己のため人のため後の世にも残り、且々(かつがつ)死なぬ人々への仲間入りもでき候へば、福この上のないことに候。人屋をい出候へば、またいかなる禍のこようや知れ申さず候。もちろん其の禍の中には、また福も交じりそうらえども、しょせん、一生の間難儀(なんぎ)さへすれば先の福があるなり。



これは、吉田松陰の妹千代への手紙にて松陰が語っている言葉です。簡単に言うと禍の後には福が来るということです。
直訳すると以下のようになります。

『禍福は縄の如し』(禍や福はあざなっていく縄のようなもの)
ということはよく知っておくのがよい。つまり禍(わざわい)は福の種であり、福は禍の種となるものなのだ。『人間万事塞翁が馬』(にんげんばんじさいおうがうま)である。私が牢屋においてこのまま死ぬことになれば、これは禍のように思えるかもしれないが、一方においては牢屋の中では学問をすることができて、これによって自分を高め成長でき、後の世のためになる仕事もできる。そしてその仕事のできによっては死なない人々(名が歴史に残るほど影響を与えられる存在)の仲間入りもできることと考えると、この上ない福といえる。牢屋から出ることができれば、また、どんな禍に会うかもしれない。
もちろんその禍の中にまた福も交じっているだろうが、しょせん人は一生の間、難儀をすれば、その先に福があるということだ。


自分の経験からしても良い事と悪い事はだいたい交互にやってきているような気がします。良いことがおきると気持ちも浮かれてしまい、心に隙ができて、それにより禍を呼んでしまうのではないかと思っていました。また逆に、禍が起きた後は、良いこことが起こるよう努力するのでだんだん良くなっていくのだと思っていました。吉田松陰が自分と同じ事を考えていたと思うとちょっとうれしくなります。

しかし、よーく考えてみると、自分の考えていた禍と、吉田松陰の述べている禍は次元が違いすぎると思いました。松陰の言っている禍は、牢屋にて自分が死んでしまうかもしれないという切実なものです。このような状況の中でポジティブな考えをもてるというのはすごいことだと思います。なぜ、こんなにポジティブにものを考えられるのかと自分なりに考えてみましたが、松陰には
私利私欲がほとんどないからなのではないかと思いました。
松陰のことを調べていくと、世の中の役に立つことが松陰自信のの最大の幸福であり、そのためであれば自分の死すら幸福なことだと思っているように感じます。改めて松陰の情熱に感動しました。
ニックネーム ロン at 23:57| Comment(0) | 吉田松陰の名言集

2008年10月13日

まずは目の前のやるべきことに打ち込み成果を挙げよう

位の在る所、志の存する所、唯だ位に素して行ひて其の外を顧みず、すなわち志喪わざるべきなりと。(クライアルトコロ、ココロザシアルトコロ、タダクライニソシテオコナイテ ソノホカヲカエリミズ、スナワチココロザシウシナワザルベキナリト)

自分の今与えられている役割と志についてどう考えるか。それはただ、自分の今与えられた場所で今やるべきことを誠実に行って余計なことに気を散らさないことである。そしてこれが自分の志を失わずにいることになるのである。

直訳するとこのようになるようですが、松陰としては、大きな志をもったら直ちにそれに向かって行動するすべきという考え方は間違えで、まずは日々の目の前のやるべきことに打ち込み成果を挙げることで自分を伸ばしていかなければ志を成し遂げるだけの人物になれないとしています。

自分自身に置き換えて考えてみると、結果を急ぎすぎず、日々のやるべき仕事をしっかりこなすことが大事だというように解釈します。

それがたとえ自分のやりたいことと直接関係ないとしても、やらなければいけない仕事であればしっかりとこなしていかなければいけないのだと思いました。

今の自分の仕事は正直言ってやりたい仕事ではなく悶々とした気持ちでいましたが、この言葉で少し気分が晴れやかになった気がします。

この仕事をしっかりこなしていくことが、後々自分の役に立つと信じてがんばっていこうと思いました。

連休が終わり明日からまた会社に行かなければなりませんが、気持ちを入れ替えてがんばります!
ニックネーム ロン at 23:30| Comment(0) | 吉田松陰の名言集

吉田松陰の名言1


身はたとひ 
武蔵の野辺に朽ちぬとも 
留め置かまし
大和魂


(この身はたとえ武蔵野の野に朽ち果てようとも我が大和魂は、永遠に留めおきて日本の為に尽くすのだ)

『留魂録』の冒頭に挙げられた有名な句です。

『留魂録』とは、松陰が自分の死を悟ったときに『永訣の書』と一緒に書いたものです。
『永訣の書』は松陰が死を目前にして家族に当てて書いたもので『留魂録』は松下村塾の門下生にあてて書いたものです。
『留魂録』は門下生によって複写され志士たちのバイブルとなっていったそうです。
このようにして松陰の大和魂は志士たちの心の中に留まり西洋、列強からの脅威から日本を救うこととなっていくわけですが、150年たった今でもこの松陰の辞世の句を読んで魂を揺さぶられるような思いをする人は少なくないと思います。

あの時代に、松陰のような熱い心で日本を想い、その意志を受け継いだ人物がいてくれたからこそ今の日本があるのかと思うとその時代に活躍した人物の偉大さを感じます。

今の日本、または世界のことを考えると多くの問題がありますが、150年後の人々が今の時代を見た時にどう思うのか考えてしまいます。
環境問題、少子化問題、格差社会、戦争、テロ、・・・。

日本史において、その時代によって抱えている問題は違いますが常にその時代の人たちがそれぞれの時代で抱えていた問題を後々の世代に引きずることなく新たな時代を作り上げてくれたように思えます。

そのおかげでとりあえず今、平和な暮らしができているのだと思うと自分ももっとしっかりしなければいけない気がしてきます。

あの時代に生きた人たちに比べれば、ただなんとなく生きているような適当な私ですが、この松陰の辞世の句は、一瞬でも微力ながら世の中の役に立ちたいと思わせてくれる名言だと思います。
ニックネーム ロン at 22:20| Comment(0) | 日記

松下村塾と門下生

松下村塾は松陰の叔父である玉木文之進が設立しました。
1855年に松陰が自宅である杉家にて蟄居することになり、そのときを期に松下村塾を主催することになりました。

武士や町民など身分の隔てなく受け入れたため、多くの塾生がが集まったが、安政の大獄にて松陰が処刑されたためわずか3年で廃校となってしまった。

しかし、その中から幕末、明治維新にかけて大きな働きをする人物を多数排出しました。

その中でも代表的な人物を紹介します。

■久坂玄瑞
17歳で九州遊学中宮部鼎蔵に吉田松陰の事を聞き、帰藩ご
松下村塾に入門します。高杉晋作、吉田稔麿とともに3秀と言われていました。松陰の死後は、尊皇攘夷の先頭に立って活躍していましたが、蛤御門の変で破れ自害しました。

■吉田稔麿
松陰門下3秀の一人。松下村塾に入門し、兵学を究めました。
文久3年高杉晋作が創設した奇兵隊に参加すし7月に屠勇隊を創設します。8月の※朝陽丸事件では烏帽子・直垂姿で船に乗り込み、説得に成功するが元冶元年※池田屋事件で討ち死にしました。

※朝陽丸事件・・・文久3年8月21日、幕艦の朝陽丸で長州にやって来た幕府使節3名が奇兵隊士に暗殺された事件

※池田屋事件・・・元治元年6月5日夜京都御所を焼き払い孝明天皇を長州に連れ出そうと画策している志士たちが密会しているとの情報を聞いた新撰組が池田屋を急襲した事件。

■高杉晋作
松陰門下3秀の一人。奇兵隊を組織し第2次長州征伐では幕府軍を破りその権威に壊滅的な打撃を与えた人物です。しかし、大政奉還を見ることなく肺結核により病死ししてしまいます。

■伊藤博文
初代内閣総理大臣。大日本帝国憲法の制定を指導。枢密院議長、貴族院議長、首相(4度)、初代韓国統監等を歴任。1909年ハルビン駅頭で韓国の独立運動家安重根により暗殺される。
ニックネーム ロン at 09:06| Comment(0) | 日記